基本情報
ヴェッド 好美(ニックネーム:よしみ)
1980年9月29日生まれ(43歳)
アパレルデザイナーとインスタ集客の二刀流で仕事中
<実績>
■アパレルデザイナー
・現役アパレルデザイナー 歴20年 (企画会社→大手繊維商社→中小繊維商社)
・大手有名ブランド向けに10万枚以上売上げのヒット商品企画
・大手有名ブランド商品に自身が企画した商品の雑誌掲載多数(VIVIやar)
・企画に携わったアパレル企業やブランド 20社以上 (カジュアル、モード、スポーツ、子供服、オフィスカジュアルなど)
・インフルエンサーブランドの企画担当
■インスタ集客
・小規模アパレルブランドを中心に、美容系、人材紹介会社、IT企業
・クライアントアカウントでサポート開始から2ヶ月でCV3倍
・クライアントアカウントでサポート開始から1年で1万人フォロワー達成
<サポート内容について>
■ブランド立ち上げサポート
・アパレル経験ゼロの未経験者の方や企業様向けにオリジナルのアパレルブランド立ち上げサポートを行っています。
・2021年12月にラフォーレ原宿にてブランド立ち上げサポート個別相談会実施。2日で10名が参加
■インスタ集客サポート
・徹底したリサーチ ・アカウント設計
・クリエイティブ作成(投稿画像、ショート動画作成など)
・集客サポート
よしみってどんな人なの?に詳しい情報については以下で 今までの人生を包み隠さずお話ししてますので読んでもらえたら嬉しいです!
幼少期〜小学生(校則ガチガチで無個性時代)
私は、横浜にあるごく普通の平凡な会社員一家の家に生まれました。
祖父母と両親、2歳離れた妹と一緒に住んでいて、小さい頃は両親は幼くして病気した妹に手がかかっていたので、私はほとんど祖父母に育てられたようなもので、「超」がつくおじいちゃん、おばあちゃん子でした。
幼稚園までは明るく、ちょっとひょうきんな性格で、人を笑わせるのが好き。
祖母が手芸が得意だったこともあり、小さい頃から手芸や絵を描くことが好きで、なんでも手作りしてた子供でした。
そんな中、ごく普通の一般家庭でしたが、両親が頑張って小学校受験をすることになり小学校は小・中・高一貫の私立の女子校へ。
その学校は制服があり、校則もガチガチ。
・ランドセル
・マフラー
・文房具(筆箱、下敷など)
まで全ての持ち物が指定のものに決まっていた学校でした。
個性は皆無の世界でした。
今思えばかなり窮屈な校則だったので今からその学校には行きたくないですが、 当時はそこしか知らなかったので何の疑問も抱かず生活していました笑
小学生時代は勉強は中くらい。 お世辞にも勉強はできるタイプではありませんでしたが、中くらいは保っていました。
得意な科目は美術と家庭科。 当時は交換日記がブームで友達と交換日記でセーラームーンの絵を描いたのと、クラブは英語クラブと手芸クラブに入っていたので、そこで画力と手芸は磨いて、なんとなく自分は「美術と手芸が得意で好き。」ということを自覚し始めたのは小学校5年生くらいでした。
学校へは横浜から江ノ島まで毎日1時間以上かけて通っていたので、幼稚園の時の友達はみんな近所の小学校に通っていたし、学校から帰ったら宿題をやらなきゃで「放課後に友達と遊ぶ」ということを全くしなかった小学生時代でした。
ただ、それ以外は何の不自由も受験戦争もなく恵まれた小学生生活でした。
中学生〜高校生(大挫折。人生オワタ時代)
小学校〜高校まで一貫の学校だったので、小学校の時の友達とはほぼそのまま中学へ進学。 しかし、進学校だったため外部受験を勝ち抜いてきた人たちが中学から入ってきました。
元々中くらいだった成績も外部生の入学で中の下となり、この頃から勉強では自分は勝てないと思い半ば諦めていました笑
でも、相変わらず美術となぜか古文・漢文は得意でこれだけは成績常に上位。
国語については現代国語の読解力はないのになぜうか文章力はあると先生にお褒めをいただき、読書感想文は全国大会にまで選出された経験があります。
(ちなみに小学校でも作文が入賞したことありました。)
この頃から、
ただの「ちょっと絵が上手な子」から漠然と「将来は美術で食べれる人」
を目指すように。
中学と高校の部活は美術部で活動。 油絵なんかも描きましたが、今思えばちょっと絵が上手な子たちが集まる趣味程度の部活。
高校の大学進学時の進路相談で美大に進みたいと担任の先生に伝えたら
「美大は大変だから辞めなさい」
と全力で反対を受けましたが、両親や部活の顧問の先生が応援してくれたこともあり美大に行くための予備校(アトリエ)に通うことになりました。
ただ、ここでの経験で人生初めて大きく価値観が変わり、大きな挫折を味わうこととなりました。
<価値観が変わったり挫折した点>
①多様性の世界
アトリエに通う人たちは私立だけでなく公立の子たちも多く、講師は現役の芸大や美大の生徒さん。
今まで校則ガチガチの中で、外の景色も見ずに多くの時間を過ごしてきた私にはびっくりするようなことや初めて見聞きするようなこと、斬新なアイディアが多く、新しい価値観に触れられ毎日が刺激的な日々でした。 同時に、あまりに世間知らずで経験値が低い。
井の中の蛙状態の自分に100歩以上遅れていることを実感し幻滅しました。
②上には上がいる
今までは一つの学校の中で「ちょっと絵が上手」だった私がいざアトリエに踏み込んでみたら、全国の本気で芸大・美大を目指している「本気で絵が上手い人」が集結していて、その差は歴然。
あまりの差に挫折を味わいました。(今考えたら、挫折している間に行動しろです笑)
そんな中、舞台美術や商業デザインに興味を持っていた私は「空間デザイン」や「環境デザイン」といった商業や空間のデザインを学べる大学・学科を目指しましたが、本当に才能がある人との間を埋めることはできず、1浪しても行きたい学校に行くことはできませんでした。 これが美大受験の現実でした。
結果、これ以上浪人をしてもいつ合格できるかはわからないし、両親に迷惑はかけられない。ということで、行きたい学校ではありませんでしたが、当時Yohji Yamamotoのオートクチュールコレクションに感銘を受けたことでファッションに興味が出たので、服飾デザインが学べる美大へ行くことにしました。
ただ、中高の友達は難関大学にみんな進学している中で、浪人しても行きたい大学に行けなかった自分に劣等感しかなく、「人生終わった」と思っていました。
大学生(好きなことだけやってた人生謳歌時代)
大学進学当初、挫折はしていましたがどこかで 「私は本当はこんな学校にくるレベルの人間じゃない」と学校には失礼にも過信をしていました。
でも、「そんな気持ちで学校に通っても楽しくない!行くからには楽しみなさい!」 というアトリエの先生の言葉を思い出し、大学生活はとても楽しく過ごしました。
何よりも、ガチガチの校則に縛られていた生活から「何でも自由」な美大の空気感は自由すぎて解放された気分でした。
そして、以前の私はYohji Ymamotoに感化されて高校時代は黒尽くめの服を多く着用していましたが、美大の自由な雰囲気やその当時話題になり始めた蜷川実花や草間弥生の影響を受けて次第に華やかでPOPなものに惹かれるようになりました。
美大の私が行った学科では 「生地から自分で作って服を作る」をコンセプトとした学科で、いわゆる服飾科とも違った学科でした。そのため、
・シルクスクリーンプリント
・織り
・服作り(パターン〜縫製)
・ファッションイラストレーション
と幅広く学び、客員教授でYohji Yamamotoがたまに授業していただくのも魅力的でした。
特に、一番影響を受けた先生は、以前フランスやイタリアで第一線でデザイナーとして活躍されていた先生で、自分がアパレルブランドを立ち上げる場合の
・ブランドコンセプト設定
・ターゲット設定
の授業でした。 ものづくりとは異なる授業でしたが、これが今後の仕事に大きく関わることになります。
また、某有名ファッションジャーナリストの中の元でパリコレやミラノコレクションの分析のアルバイトもしました。学生ながら、第一線のプロの仕事を目にすることができてとても刺激を受けました。
それまでの自分はどこかアート的な仕事をして行きたいと持っていましたが、次第に商業的な仕事をして行きたいと思えるようになったのはこれがきっかけです。
そんな学生時代でしたが、日々の活動が楽しくて就職活動をそっちのけだったため、卒業時には就職先が決まっていないという状態。 親に頼み込んで食いつなぐ生活をしてました笑
そんな中、友達の紹介である帽子デザイナーさんのアシスタントとして働きました。 世界的に有名なブランドのパリコレにも出た帽子作りに携わるという貴重な経験をしましたが、私は自分のデザインを世の中に出したいという目標があったのと時給でいくと約400円くらいの仕事でこのままでは生活ができないと思い、半年で辞めて就職活動しました。
新卒でなく中途採用での活動だったので前途多難でしたが、40社以上受けた中でなんとか1社だけ受かり拾ってくれた会社があったのでそこに行くことになりました。
新社会人(暗黒のブラック企業時代)
何とか拾ってもらった会社は社員20人もいないアパレルの小さい企画会社でした。 女性社長の勢いとほとんどが20代のメンバーの若さで成り立っていたような会社です。 主に、アパレルブランドの生産を請け負った商社と組んで企画提案をしていく仕事をしていました。
しかし、やっと入れた喜びも束の間、
ここはブラック企業でした。
入社1日目にしてそれを察知し、初日にして「辞めたい」と思いました。
・社内のデスクでタバコ(昭和か笑。私は大のタバコ嫌いなので苦痛すぎた) ・帰れない日も多くベッドはダンボール敷いて寝てた。 ・お風呂は会社の近くの銭湯(銭湯には詳しくなった) ・週の初めは一週間分の洋服を持って出勤
さらに、一応正社員でしたが、残業代も社会保険も厚生年金もなくアルバイトした方が稼げました笑
でも、アパレルの場合は特に経験がないと転職活動してもまた苦労をすることが目に見えていたので、3年は頑張ろう。
と誓って歯を食いしばって「お金をいただいて必要なスキルを身につける!」つもりで頑張りました。
そんなブラック企業時代ですが、大手のアパレル企業の場合は分業制だったところ、小さい企画会社だったのでアパレルのデザインや服作りに必要な知識やノウハウはここで吸収しました。
<この会社でてたスキル>
・イラレでの絵型作成
・イラレでの指示書作成
・イラレでの提案MAP作成
・リサーチ資料作成(リサーチ〜資料作成)
・工場へのサンプル指示出し〜量産指示まで
・コレクション分析資料作成 ←学生時代のバイトが役立つ
とにかくなんでもやらされたので、嫌でも身につきました。
沢山トイレで泣いたこともありましたが、個人では絶対に仕事できないような今となっては日本最大のアパレル企業の立ち上げのお仕事や有名ブランドのお仕事などもう30ブランド以上のお仕事をさせていただく機会ができてやりがいはあり、楽しかったです。
あと、アジア雑貨のお店の企画の仕事もしており、何度かインドやネパールへ長期で出張にいったこともあります。
社内の雰囲気はよかったのとさまざまな経験をさせていただいた会社だったので、つい5年もいてしまいましたが、20代後半になって先の人生を考えた時に不安を感じ、次は商社に行こうと決めて転職活動をしました。
ブラック企業で身につけたスキルは転職活動では目を引き、希望の会社へ転職をすることができました。 この時、5年間頑張ってきて本当によかった。と思いました。
大手繊維商社時代(充実の毎日だが、漠然と将来に不安)
目指していた繊維商社に転職し、今までの時間と心に余裕がない状態から生活が一変。
土日も友達や彼氏との時間を作ることができるようになって、月収も1.5倍!さらに初めてボーナスももらえるようになってとても充実していました。
お仕事も ・会社の展示会 ・某有名ブランドの企画 を担当して、年に4〜5回はリサーチや工場視察・打ち合わせのために中国や韓国へ出張しやりがいを感じていました。
有名ブランドの企画では、多くの芸能人に自分の企画した洋服を着てもらえたり、雑誌に掲載をしていただいたりととても楽しかったです。
特にアパレルブランドのデザイナーをしていて
・自分の企画した服が雑誌に掲載される
・自分の企画した服が店頭に売っているのを見る
・自分の企画した服を買っている人を見る
・自分の企画した服を着ている人を街中で見る ←特にコレ
は大きな喜びでした。
副業に目覚める(しかし、これでいいのか迷走期)
しかし、ある2つのことがきっかけに将来への不安を感じました。
<2つの不安>
①社員から業務委託へ
社員として入った会社でしたが、デザイナーは全員業務委託にならなければなくなり、やむなく業務委託になりました。
念願の商社に社員で入れたのに、今後どうなるのだろうという不安を感じ始めました。
②結婚を機に将来への不安
商社に入ってしばらくして、付き合っていた彼と結婚。
業務委託であることで将来的に育休などの制度がないため蓄えなど漠然と不安を感じていました。
そんな中から、副業を意識し始めました。
今から約10年ほど前の話です。
自分に何ができるのか。そんな中から、幾つもの副業にチャレンジしました。
・ハンドメイドアクセサリー販売
・ハンドメイドアクセサリー作成教室
・名刺やチラシ作成
・動画編集
など
動画編集を極めたらお金になるかも。くらいで動画編集を学びましたが、Youtubeは今のように盛り上がっていない時代だったので、このままやっても大丈夫なのか。という疑問があったのと、自分があまりやりたい仕事ではないかも。と思い辞めました。 (今思えば、これは続けておけばよかったと後悔です笑)
色々チャレンジしてみましたが、なんかちょっと違うな。と感じていましたが、本業が楽しかったので人生を変えたいまでの欲はなく、何となくでやっていました。
でも、ある時会社の仕事へのモチベーションを失った際にあるつながりから、「ビジネスコンサル」の方を紹介してもらったことがきっかけで大きく人生が変わります。
起業に目覚める(ブランド立ち上げサポート開始。でもクライアントの不安に壁)
人生初のビジネスコンサルを受けることになり、コンサルの方に
「よしみさんは何ができますか?」と聞かれました。
改めて、何ができるのかな。と考えたときに自分一人では何も思いつきませんでした。
しかし、
・今までの経歴
・得意なこと
・好きなこと
・人の役に立てること
から様々な棚卸しをして生まれたのが
「アパレルブランド立ち上げサポート」でした。
周りにはこんな人がたくさんいました
・取引先ブランドの担当者はトレンドやファッションに敏感。でもそれを服に形作るノウハウはない。
・自分のブランドを作ってみたいけど、何からすればいいのかわからない
・以前に自分のブランド作ったけど、うまくいかなかった。
・小ロットでものづくりできるところがなかった。
また、私は日頃の企業ブランドさん向けのデザイン業務でやりがいを感じてお仕事をしていましたが、一方で量産的なお仕事に疑問を持つようにな理、もっと個人の価値観を生かしたファッションを作って行きたいという思いを持ち始めていた時期でもありました。
よくリサーチでも活用していたインスタでは
多くのインフルエンサーや芸能人が自分のブランドを作って売っている。
でも、今後は一個人がブランドを立ち上げてインスタで売る時代になるのでは?
と思い開始しました。
その当時はブログをメインに集客をしていて、他に同様のサービスを個人でやっている人がいなかったため、多くの方がお問い合わせを下さるようになりました。 (インスタ集客もやっていましたが、コンサルの方はインスタに関しては詳しくはなかったのであまりうまく行きませんでした)
ただ、問題点がありました。 お問い合わせをいただいたお客様の9割は
・資金がない
・影響力もない
・アパレルの知識やスキルがない
だから、
「服を作っても売れるか不安」
というお悩みを抱えていたのです。 これをどうしたら解決できるのかな・・・と考えていた際に
コロナ時代が到来しました。
都内の駅ビルも閉まったり、アパレルは大きなダメージを受け、より一層アパレルデザイナー以外の柱が必要と感じるようになりました。
そんな時に見つけたのがLINEに流れてきたインスタ集客の講座のお知らせでした。
コロナでほぼ在宅だったので、チャンスだ!これで、
・自分のもう一つの収入の柱を作れる
・アパレルブランド立ち上げサポートの人を助けられる!
そう思いインスタを学び始めたのです。
インスタ集客サポート開始〜現在
コロナ期を活用して入会したオンラインスクール。
通常業務を終えた後に毎日オンラインスクールの講座を受けて、日々インスタ漬けの毎日を送り自身のアカウントを回し続けたことでインスタ集客サポートの仕事や運用代行の仕事が入るようになりました。
当初、その時の入会したオンラインスクールでは起業家向けのインスタ運用をメインに教わったおので、女性起業家をターゲットに発信をしており
初めにいただいたお仕事は
・起業コンサルをされている女性起業家様
・電子書籍出版業をされている女性起業家様
の運用代行でした。
インスタフォロワー1万人にまでにすることでできて成約率もUPに貢献できたのでとても良い経験でしたが、私が本当にサポートしたい方は
・アパレル業界の方(ブランド、メーカー、セレクトショップ)
・アパレルブランドを立ち上げたいけど、お金も影響力もない方
ということで、再度インスタアカウントを開設。
今はアパレル業界のインスタ集客サポートを発信しています。
しかし、「アパレルブランドを立ち上げたいけど、お金も影響力もない方」はインスタ集客へのサポート料を十分に避ける方もあまりいないため、今は小規模アパレルブランドをはじめとしてセレクトショップ、アパレルメーカーといった企業向けのサポートを行なってきました。
しかし、当初からこの人たちの役に立ちたい!と思っていた
「アパレルブランドを立ち上げたいけど、お金も影響力もない方」のために何か届けられないか。ということで、
・アパレルの知識がない
・お金もない
・影響力もない
何もないけどアパレルブランドを立ち上げたい一般の方に向けてこのブログで
アパレル未経験者でも1年でインスタフォロワー1000人を集めて
アパレルブランドを作って販売するまでのステップをお届けします!
そして、私が今までに味わった
「自分が企画した服を着ている人を見る」
という大きな喜びを味わっていただきたいです!
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